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この世のものならぬ
政治的資産としての芸術

執筆:Qiang Wei

訳:劉海名

一つの芸術観を想像してみよう。それは未来に関わり、抑制に関わるものである。

一.

  まず、私がこれまでに観察してきたある現象について語りたい。多くの美術批評の文章において、芸術家と政治との結びつきは、常に背景に置かれてしまう。ここで私が言おうとしているのは、今日の文化批評が人物や事象を的確に見極める力を欠いているということではない。むしろ、同時代の作家の作品とその制作時代との関係や差異をめぐる分析が、美術史の領域に限定されており、歴史そのものの中では扱われていない。つまり、新しい芸術様式は前の古びた芸術制度への反動として提示されるが、それはあくまでも芸術制度に対する反動にすぎない。この過程において、芸術家の政治的アジェンダは巧みに視界から外されてしまうのである。言い換えれば、芸術は歴史的世界から切り離された閉ざされた領域として見なされているのだ。この現象には、芸術は現実に指針を与えることができないという芸術観が内包されている。確かに、芸術はその媒介の特質ゆえに、体系的な提案を描き出すことは難しい。ピカソの《ゲルニカ》における戦争への反省から、七〇年代イギリスのポストパンク・バンドによる抑圧的な新自由主義秩序への反抗の叫びに至るまで——政治と深く関わっていても、芸術は常に章程ではなく、感性的な表現として立ち現れる。しかし、だからといって我々は落胆すべきではない。むしろ、それは芸術の欠陥というより、歴史的世界とのこの決定的な距離こそが、芸術というものを形づくっているとも言える。

  では、芸術と政治との関わりとは何であろう。両者はいかに相互に影響し合うのか。これからの議論に対する一つの重要な思考の糧として、作家・魯迅の作品群が挙げられるかもしれない。魯迅の作品は幅広く、その中でもよく知られているのは短編小説と木版画である。彼の作品の多くは腐敗した旧中国社会への批判であり、たとえば《狂人日記》では「人を食う」という比喩を用いて、封建社会における人間同士の相互的な搾取という真相を描き出した。私の見方では、魯迅の作品は政治を通して理解されなければならない。魯迅にとって、芸術は二次的なものだったかもしれなく、それは彼の作品の特徴からもうかがえる。まず小説について言えば、文学という展示的メカニズムは外部へと開かれ、専門的な人たちと大衆の双方に同時に向けられている。読者は刊行物を手にすれば、その観賞の場所を自由に選ぶことができる。この展示の過程は、生活の場面と完全に混じり合っている。また、魯迅が選んだもう一つのメディアムである木版画も、きわめて高い複製性と拡散力を備えていた。魯迅が制作していたのは芸術というより、むしろ政治的資産であったと言ったほうがよいだろう。それの重点は、読者を没入させる複合的な体験を創出することではない。むしろ逆に、魯迅の作品は読者を立ち去らせる——痛み、矛盾、葛藤、骨身に沁みる不条理は、読者に留まる余地を与えないのだ。現代の商業芸術の制作過程では、芸術家の作品は展示やオークションに出され、その文化的影響は芸術制度の内側で循環的に消化されて終わってしまう。だが、魯迅の作品には永遠の未完性があり、その作品は絶えず歴史的世界へと開かれ続けている。

 

  魯迅は創作において、一種の弁証法的な関係を保ち続けていた。彼の作品には芸術への揺るぎないこだわりがあり、その執筆は常に高度な水準を維持していたため、魯迅の作品は完全にポスターやスローガン的な政治道具へと崩れ落ちることがなかった。同時に、彼は自作を政治運動そのものではなく、その運動を駆動させる一環として位置づけていたのである。政治的に力を持つ芸術作品を創るということは、芸術が政治において無力であることを認めることにほかならない。変革を描くのではなく、変革を開くのだ——すなわち、変革の景観(代替物)をこしらえることではないのだ。

 

二.

  私はこう信じている——多くの芸術家の脳裏に、かつて一度はこんな思いがよぎったことがあるのではないか。すなわち、芸術における視覚的可能性はすでに出尽くしてしまったのではないか、と。いま、どのような試みを行ったとしても、それに類する視覚様式はすでに歴史の中で試みられてきたのではないか、と。

 

  革新、インスピレーション……芸術家に与えられるこれらの言葉は、つねに一つの問いを突きつける——どうすれば「新しい」ものを創造できるのか。結局、それこそが芸術家に課せられた使命ではないか。この問いに応えるためには、まずこのしなやかに変幻する概念を、一度は安定させなければならない。

 

  まず、ある種の「新しさ」を除外してもよいだろう。それは、果てしなく繰り返される数字の更新——たとえば電子製品に見られるものだ。毎年、新たな機能を備えた電子機器が作られる——iPhone13、14、15……。そこには明白な問題が潜んでいる。すなわち、ここでいう「新しさ」は旧型との継承関係を持ち、前者は後者の強化版にすぎず、パラダイムの変化を引き起こすものではない。新型のスマートフォンは、より高精細な画素数やより速い充電速度を備えるかもしれないが、根本的には使用体験を揺るがすことはない。このような継承関係は、美術史には存在しない。仮にあったとしても、それはあくまで副次的な効果にすぎない。新たな芸術流派の誕生、新たな方法論の登場は、芸術という概念そのものを根底から覆してきた。美術史は断絶と反抗に満ちている。その最良の例がデュシャンであり、彼のレディメイドの概念は芸術体験を根本から変えてしまったのだ。

 

  もう一つの「新しさ」は、より現代的であり、ある観念と結びついている。それは、芸術とは私的な体験を外部空間へと解き放つ過程であり、一人ひとりに固有の本質があるという考えだ。芸術作品は指紋のようなものであり、その過程が十分に誠実であれば唯一無二で価値があるとする。しかしこの考えは、「人間には固有の本質がある」という楽観的な前提に立脚している。私はここで個の存在を否定するつもりはない。だが、我々の体験や記憶は固定的なものではない。思い返すたび、悟るたびに——我々の本質は禅宗の棒喝のような瞬間を経て、絶えずに揺らぎ、変化し、形を変えていく。そしてその本質は、常に現行の制度や階級意識によって媒介され、抑圧され、同化されているのだ。

 

  最後に、もう一つ——より冒険的な「新しさ」について描写させてほしい。それは、例えばこんな場面で突然立ち現れるかもしれない——「なぜこんな解き方を思いつかなかったのだ!」「あの野郎を殴ってやればよかった!」「こんな近道があったとは!」。

 

  おそらく、これらの場面は三つの段落に分解できるだろう。すなわち、あの決定的瞬間が訪れる前(より良き解が潜んでいながら、いまだ感知されぬままにある)、決定的瞬間の後(その潜在が常に存在していたことを悟る瞬間)、そして両者をつなぐ、ユートピア的な衝動である。我々を驚かせ、同時に悔しさで震わせるこれらの瞬間は、虚空から生まれた幻ではない。それは、長らく覇権によって抑圧されていた選択肢がついに姿を現す過程なのだ。

 

  TINA(There is no alternative/新自由主義以外に可能性はない)——この語は、マーク・フィッシャーが自身の作品の中で繰り返し引用した概念である。これは典型的な新自由主義のスローガンであり、ユートピアに対するこれまでにない、組織的かつ体系的な政治的中傷を示している。覇権が自らの実行モードを「あたりまえ」の姿に偽装するとき、それは自らを覆し得る、あるいは代替し得る他の選択肢を押し潰すのだ。しかし同時に、ここには「新しさ」を獲得するための方法をも示唆している。それは、例外状態を促すこと——与えられた事実への懐疑であり、政治的抵抗の意志そのものである。

 

  切迫した試験の残り十分間、侮辱を受けた瞬間、ふとした思いつきで歩き出した散歩の中で——私たちはすでに奇跡を創り出してきたのだ。

 

三.

  私の記憶では、2005年以降、「タイムトラベル」を題材とするジャンルが中国のネット文学において巨大な一角を占めるようになった。作風や内容は多様だが、その構造には明確な特徴がある。すなわち、主人公はある出来事(多くの場合は死)によって目覚めると別の世界に入り、前世の経験が新世界における資本へと転化するのだ。例えば、現代文明の教育を受けた主人公が、前近代的な世界へと渡り、前世の記憶を利用して、いとも容易く文豪や科学者などになってしまう。こうした設定は、タイムトラベル小説を高度にリビドー化させる。主人公は「来訪者」の視点を維持し、それは読者の視点と完全に一致する。つまり、同じ人称の選択と文体であっても、タイムトラベル小説はより強い没入感をもたらし、陶酔が強化されるのだ。ある意味で、タイムトラベル作品を文学に分類するのは正確ではない。なぜなら、それはタイムトラベル小説がきわめて高度な娯楽技術を体現しているという事実を見落としてしまうからだ。

 

  しかし、この種の娯楽技術はまったく新しい可能性を指し示すものではなく、むしろ反復であることが多い。主人公が死後に入り込む世界は、多くの場合、その「前世」と似通った階級構造を保持している。ただし、社会を貫く資本は別のものに置き換えられている——例えば、ある種の魔法的能力や武力の天賦などに。前世では凡庸であった才能が、新たな世界ではまったく異なる地位を得るのだ。これはつまり、主人公が新しい世界に来たのではなく、同じ世界で異なる階級的地位をもって二度生きているにすぎないことを意味する。このような作品は階級秩序そのものを問い直すことはなく、表面的な価値の置換を通して、主人公(第二の誕生において)に絶対的な優位を与える。飛び込んでいるのは新たな可能性ではなく、一枚の鏡像であり、閉ざされた環状構造である。だからこそ、こうしたタイムトラベルというジャンルの中に《ソラリス》のような光景——心理学者や科学者がソラリス星と接触した結果、あらゆる科学理論と生命経験が無効になる——を見ることはできない。タイムトラベルという題材の深層には、現行秩序の揺るぎなさへの信仰があり、現状は永遠に変わらない。死であっても、来世であっても、それは動かせない。痛ましいことに、無限の可能性を象徴するはずの幻想までもが、後期資本主義の論理によって塗り潰されてしまっているのだ。

 

  では、タイムトラベル小説はどのような現実を映し出しているのだろうか。いかなる文化的環境が、このような娯楽技術を生み出したのか。その手がかりは、ロック・ミュージックのオーディション番組に見いだせるかもしれない。言うまでもなく、読者はロック音楽に内包される急進的な本質を理解しているだろう。中国の初期ロック(80年代頃)は、まだ主流の言説体制に組み込まれておらず、そのため周縁的な自律空間の中で独自のエコロジーを築くことができた。だが、バラエティ番組がロックに介入すると、いくつかの変化が生じた。番組は「ロックの普及」を目的としていると主張するが、実際には曲やバンドの選別・改変を通じて、ロックの座標系そのものがずらされてしまったのである。普及の名による再構築であり、ロックのエコロジーを商業的論理で暴力的に編入する行為だった。バラエティ番組の本質は普及でも革新でもなく、またしても反復である——商業的嗜好に従わないロック創作者は依然として周縁に置かれる(番組の有無は彼らの状況を変えない)。

 

  このような事例が示すのは、おそらく後期資本主義の論理の一つの含意だ——急進的な狂騒の後に、何ひとつ変わることはない。残されるのは、自己完結し、収編された螺旋だけである。

 

 

Qiang Wei:ロンドン大学ゴールドスミス校ファインアートおよび美術史専攻学士課程を卒業後、現在はロイヤル・カレッジ・オブ・アートにてコンテンポラリー・アート・プラクティス専攻修士課程に在籍。SF文学やポピュラーカルチャーの分析を軸に研究を展開し、執筆活動では主に短編映画のレビューを手がける。制作においては、芸術作品が政治的資産となり得る可能性を探究するとともに、実用主義と空想主義の断絶を越えた「例外状態」の在り方を考察し、文化的生産における実践の地平を探求している。

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