〇〇中心主義について考える意義
執筆:劉 海名 潘 心雨
道徳的自覚の〈再編〉としての脱中心
〇〇中心主義について考えるとき、私たちはまず「中心を消す」という素朴な希望を脇に置かなければならない。なぜなら、私たちが世界を認識するあらゆる瞬間、常に何かを「中心として据える」視点が不可避的に働いているからである。中心があるかぎり、不平等は構造的に生成される。したがって、ここで私が主張する「脱中心」とは「反不平等」――中心の破壊や革命的再建――ではなく、「脱不平等」、すなわち構造を根底から変えるという幻想を手放し、自分がどの中心に依存し、どの不平等の上に立って語っているのかを絶えず修正する作業である。
私は、構造そのものが脱中心化されることはないと考える。中心を完全に消し去れば、構造もまた成立しないからである。近年の世界的な右傾化は、日本と他国に受動的あるいは能動的な加速が見られ、この個人の意志で制御できない加速は中心化構造の強化を生む。この理由から、私はマーク・フィッシャー(Mark Fisher)の視点を引用する。フィッシャーが繰り返し論じた 「TINA」(There Is No Alternative)は、現代社会において資本主義が唯一の可能性として構築され、どんな代替案も想像可能性を失ったことを指摘する。そして『資本主義リアリズム』では、人々が資本主義を超える未来を想像できず、世界の終焉でさえ体制変革よりも容易に想像できるという麻痺状態を明らかにする。フィッシャーの見解は確かに悲観的だが、その中に私は二つの希望を見てしまう。一つは、構造の冷酷さが露骨に可視化され、私たちとの感覚的距離が縮まること。もう一つは、人々は本来経験することも想像することもなかった問題に頻繁に巻き込まれ、現実生活の中で自身の特権について「考えざるを得なくなる」ことである。問題はもはや「他人事」として流通せず、生活の近距離へ落ちてくる。その瞬間が訪れたとき、思考は大衆化し、深化し、中心的言説の重力は徐々に緩むだろう。私はこのプロセスを「リアリズムの楽観」と呼ぶ。
ここで言う「脱中心」とは、中心の消失ではなく、中心の機能の移動である。ポスト構造主義は、「中心」は本来から存在したものではなく、言説構造が一時的に形成したものであり、特定の歴史的局面で権力と言語が作り上げた結晶であると提起する。いわゆる「脱中心」とは中心を破壊することではなく、その偶然性と不安定性を暴き、意味を差延と差異の中で絶えず滑動させることを指す。中心とは固定点ではなく、つねに差延され、揺らぎ、拡散し、複数の方向性の結節点として立ち現れるものだ。構造は不変だが、重力の配置は変わり続ける。私たちができるのは、この重力の変動を敏感に感受し、自分がどの重力に引かれているのかを自覚し直すことだけである。加速によって問題が生活の地平に落ちてくるとき、個人間の経験と社会的状況が人によって異なるため、理論的な論争における抽象的な普遍性が個々の事例へと反射する際に複雑で具象的となる。中心の定義と位置は一時的にずれ、多層化し、そして私たちは現実問題の緊迫性によって不可避的に脱中心的視角へと推し進められる。
私ここで私は、広く流通する一つの普遍的偽善を批判したい。自身が享受している現実の不平等構造の恩恵に無自覚のまま、ただそれを非難するという姿勢である。私たちはみな平等を語りたがるが、その語り自体が不平等の上に構築されていることに気づこうとしない。教育、言語、文化資本、移動の自由といったものは、私たちの「発言の条件」を構成する要素でありながら透明化され、そして私たちはなおも安易に「正義」を語る。真の脱中心的な倫理とは、こうした自分自身の特権性を徹底的に可視化し、自分の語りがどの構造から支えられているかを暴露することから始まる。ビザ、国境、人種差別、農村と都市の格差、留守児童と出稼ぎ労働者、人類の開発と野生動物、無戸籍、難民、犯罪率――想像すら追いつかない問題が無数に存在するという事実である。 私たちは自分の経験を基準に世界を測るが、その基準自体が偏っている。そして私たちはその偏りすら自覚していない。未経験の問題は想像できず、想像できないものは解決できない。ゆえに現実の諸現象には「解決」の可能性すら存在しない。それでも思考すること――その冷酷な現実と向き合う姿勢そのものが、脱中心の倫理的な最低線である。
では、〇〇中心主義を考える意義とは何か。私はあえてこう答えたい。それは、解決や改善の可能性を探ることではなく、「中心化」という問題を絶えずに思考することで、私たちがこれまで見落としていた「非中心」――経験されたことも想像されたこともないもの――を認識することにある。こうした「非中心」の累積は間違いなく私たちを認知的混乱へと導くだろう。そして私たちが学ぶべきなのは、この混乱を受け入れることである。答えのない問題について考えるとき、そこに残るのは思考という行為と、それに伴う感性と理性の鍛錬だけである。これは単なる懐疑主義ではない。むしろ、構造の不可逆性と中心の不可避性を前提にしつつ、それでもなお、自分が立つ場所を絶えず反省し変化させるという、現実に基づいた試みである。ニーチェ以降の「生の哲学」が示したように、思考とは生の在り方へと浸透する。加速の中で脱中心を引き受け、自己の位置を修正しつづけること。これこそが、救いなき世界に残された実践可能性だと信じる。
思考のあとで?
以上の議論を受け継ぎ、思考は確かに優れた生活様式である。しかし、「脱中心化」という解のない命題に注意を注ぐとき、思考はしばしば満足できる行動へと自然に導かれない。思考者として私たちは、反省の後にある衝動を抱く――では、次に何をするべきか?この状況において、「行動」は構造を転覆できる実質的な実践である必要はない。むしろ、問題そのものを再び見つめる視角の転換であってよい。
ここで私が提示したい実践的視角は、ポストヒューマニズムでしばしば浮かび上がる二つのキーワード――共存(coexistence)とハイブリディティ(hybridity)――から来ている。ダナ・ハラウェイ(Donna Haraway)の『サイボーグ宣言』において、サイボーグは単に人と機械が交雑したSF的生命体ではなく、後期資本主義の背景における生存哲学として登場する:「純粋性」と「全体性」への執着を手放し、混沌、縫合、断片、絡まりを抱擁する;完全なる潔白な転覆を求めるのではなく、「トラブル」と共に生きることを学ぶ。同様の生存論理は、もう一つのポストヒューマニズム的テキスト――アナ・チン(Anna Tsing)の『終末マツタケ』にも体現されている。マツタケを研究の中心に据え、資本の廃墟の上で生存の可能性を探る研究が展開される。1945年、広島が原爆で破壊された後、マツタケはこの近代技術の災害の廃墟で最初に再び現れた生命のひとつであったといわれている。菌類としてマツタケは人工栽培できず、採取者が野外で偶然に出会うしかない。さらに重要なのは、マツタケの存在がいかなる安定構造にも線形規則にも由来しないことである。純粋な森林でも核爆後の廃墟でも出現しうる。このため松茸は独特の生命的隠喩となる:それは構造への対抗や否定ではなく、廃墟の上でそれと共存する可能性を探るポストヒューマニズム的実践として現れる。
総じて言えば、ハラウェイの「サイボーグ」とチンの「マツタケ」は、「いかに転覆するか」から「いかに共存するか」への思考の転換を提供する。つまり、純粋性、中心性、最終解決への執着を離れ、雑合的、無中心的、非線形的世界で「トラブル」と共に生きる有機的視角である。
今回の展示は、この視角に対する一つの実践である。私たちは構造自体に挑戦するつもりはなく、むしろ構造に支配された「中心化」の視角と実践の可能性について考えたい。したがって本展で展示される作品は、人間中心性への反省として呈示される「脱中心化」の想像とみなされうる:言語哲学から技術哲学、さらには私たちの生物的存在まで。だが、それが終点では決してない。もっと重要なのは、さまざまな「脱中心」の方法論、思考方式、実践の可能性を日本へ紹介することである。この知識流通と知識生産の方法の交換こそ、G.O.EN PROJECT が取り組む方向である。これらの議題の多くがまず西洋で提起されたのは、彼らが私たちより早くこれらの問題に直面したからである。状況は異なるとしても、彼らの思考は示唆的である。現代アートの領域で実践と思考を行うとしても、私たちが直面するのはより大きな次元での知識生産の方式であり、その裏にはポスト資本主義的欲望とエコテクノロジーがもたらすポストヒューマニズム的な思考がある。さらに、人種差別、経済格差、地政学的不穏――2020年以降、私たちはその加速を目の当たりにしている。この背景のもとで、私たちは道徳的自覚と反省から出発し、単一の具体的問題にとらわれず、根本的思考と実践方式をもって多様な「中心化」構造に向き合う必要がある。G.O.EN PROJECT はこの背景の中で実践の歩みを速め、より多くの「脱中心」思想と方法論を紹介し続けていく――ポストヒューマニズム、クィア、新自由主義、ポスト資本主義。今後の企画はこれらの議題に焦点を当て続け、不可変な「中心化」の現実構造に対して、新たな「脱中心」の可能性を紹介し提示していく。
劉 海名: 愛知県名古屋市生まれ、中国・上海育ち。愛知県立芸術大学美術学部芸術学専攻から、ロンドン大学ゴールドスミス校ファインアート&美術史専攻へ転校。「現代アートの脱中心化」を主題に、展示と批評の二つの軸で展開する長期プロジェクト「G.O.EN PROJECT」を発起した。これは、自分自身のアートプロジェクト実践の延長に位置づけられ、保守的左派的な精神から、知識を現実に作用させようとする姿勢でもある。研究関心は、日本の現代アートに内在するポスト植民地主義的傾向など、文化批評的領域に及ぶ。その他、映像、版画、テキスタイルなどの媒体を用い、「無形の感情を有形の物質性へと翻訳すること」をテーマに制作している。
潘 心雨: ロンドン大学ゴールドスミス校ファインアート&美術史専攻卒業。彼女の制作および執筆活動は主にポップカルチャー、特にロンドンで台頭しているアンダーグラウンド音楽シーンに焦点を当てている。