日本の友人たちへ:
現代アートの「生き残り」に関する提言
執筆/翻訳:Sangheon Yee
現代アートは今、どこに位置しているのか?私たちはそれを一つの堅固な運動として定義することはできない。ポストモダニズム以降、美術はもはや中心的な理念や様式を持たなくなり、その結果として断片化され、個別化された流れが乱立している。言説とイメージが過剰に重なり合い、美術はしばしば自己消滅を繰り返す事件として立ち現れる。直観的な形式のリアリズムがもう少し長く持続していたらと思う気持ちはあるが、モダニズムが築いた秩序と純粋性の解体は、むしろ芸術内部の必然的なプロセスであったのかもしれない。
コンセプチュアル・アートやネオ・ダダの到来以降、現代美術は次第に教養のある少数者だけが享受できるエリート的領域へと変貌し、それは観客層の縮小に直結した。韓国と日本のいずれにおいても、制度の外で生き残る芸術家はますます減少し、大多数の作家は美術館やビエンナーレのシステムに組み込まれなければ道を見失い彷徨う状況である。私は学部時代に経済学を学んだ人間として、このような状況は構造的に予見されていたことだと思っている。資本の欲望と速度に照らしてみれば、現代アートは本質的にあまりにも遅すぎる。変化する文化的条件に即応できない体制は、容易に周縁化されるのだ。
だが、もっと根本的な問題は内側にある。私たち自身が展示を消費しない場で、どうやって「シーン(scene)」を復興することができるのだろうか? 芸術家や研究者という内部者でさえ、現代アートの展示において感覚的な震えを感じられないのであれば、その正当性や生命力はどこで回復されうるのか?
現代の視覚文化全体において、美術はもはや特別な地位を占めていない。人々は美術よりも、音楽、ファッション、あるいはデジタルコンテンツの中に、より深い感覚的転移や驚嘆を求めている。アドルノは大衆芸術の登場を欺瞞と呼び、無批判な受容者の出現を警戒したが、1世紀後の現在、私たちが目撃しているのはむしろ、大衆芸術の方が感覚的な実験や文化的波及力において、現代美術よりもはるかに成功しているという逆説的な現実である。K-POP、ストリートファッション、ビデオゲームの視覚言語などは、もはやサブカルチャーにとどまらず、美的革新の最前線を担っている。
それにもかかわらず、多くの人々はいまだに「芸術の純粋性」に期待して特権的な位置を維持しようとしている。しかしこの期待は根拠のない自己欺瞞であり、現実を直視しない幻想にすぎない。もちろん理論や言説は依然として意味ある道具ではあるが、それらが今日の美術実践と具体的にどのように融合し、実際の動力を生み出しているのかという点については、根本的な疑問が残る。次なる局面へ進む前に、私たちには一つの前提が必要だ。すなわち、現在の美術が直面している文化的・技術的条件を正確に認識し、それをもとに新たな生存戦略を構築しなければならないということである。
韓国の場合、美術は伝統から距離をとることによって新しさを築く傾向が際立っている。これは地政学的な生存史や急速な近代化の歴史と結びついており、K-POPやファッションなどの分野において新たな美的感性として結実している。デジタルネイティブ世代の作家たちもこの潮流に呼応し、ブリヨが語った「ポスト・プロダクション」的態度――情報を再構成し再配列する姿勢――を通じて、自らの言語を構築している。それは単なるコンピューター操作ではなく、色彩・触覚性・物性に対する緻密な実験を含んでおり、それこそが作家の執念と職人的精神の新たな形態として読み取ることができる。
制度の外における生存戦略も模索されている。たとえばギャラリー「シャワー」は、美術インスタレーション会社「シャンプー」と併行して活動し、資本の流通を確保しながら、その資源を再び展示企画に再投資している。これは閉じられた権威ではなく、開かれたネットワークの中でアイデンティティを構築する方法である。「シャワー」は、美術界の階層や制度的正統性に依存せず、他者との接続を通じて流動的な生存形式を模索する「場(scene)」である。ギャラリーはもはや固定された機関ではなく、感覚的実践が交差する関係性の場へと変容している。
そして、AIが美的判断にまで介入するこの時代において、芸術の権威もはや固定されたものではない。かつて人間だけに固有だとされていた「特別さ」も、もしかすると遅い計算速度や誤りの多い記憶力の言い訳にすぎないのかもしれない。では、芸術家として私たちはどのように生き残るべきなのか?
その答えは、「固有の視覚」にあると私は思う。アルゴリズムが模倣できない感覚、感性、存在論的態度。それがなければ、あなたの美術はすぐに解体されるだろう。あなたは代替可能な存在なのか? それとも代替不可能な感覚を所有しているのか? 芸術家とは単にイメージを生み出す者ではなく、世界を解釈し、感応する方法そのものを問い直す存在である。あなたの視線、あなたの言語、あなたの感情とそれを媒介する方法は、大衆やメディアに呑み込まれることなく、自らを自己増殖することができるだろうか?
不快に思われるかもしれないが、愚かな芸術家たちこそ、AIをはじめとする新しいあらゆる技術に対して、私たちは常に敏感に反応するべきである。歴史的に見ても、技術革命は単なる道具の変化ではなく、社会構造と人間の認識そのものを全面的に転換させてきた。確かに新技術は反発や不安を伴う。しかし、特異点を予見したレイ・カーツワイルが述べたように、このような心理的混乱は本質的に過渡期の現象であり、最終的には人間条件の再構築を予兆する兆しにすぎない。重要なのはそのスピードである。変化に対してどれほど迅速かつ柔軟に適応できるかが問われている。人間存在の境界を能動的に再編成し、技術を内面化した「サイボーグ的感覚」こそが、むしろ新たな芸術的インスピレーションの基盤となりうる。
あらゆるライフスタイルが芸術であるべき時代が到来した。展示空間だけでなく、日常における実践と思考のあり方こそが、芸術的主体性を宿す場となるべきである。もはや美術は救済者ではない。むしろ私たちこそが、美術が生き延びるための最後の可能性なのかもしれない。
Sangheon Yee:ロンドン大学ゴールドスミス校現代アート理論専攻修士課程在籍。現代的現象を哲学や批評理論を通じて媒介することに焦点を当て、より広い観衆との開かれた接点を創出することを目指して研究を行っている。